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はじめに

えー、長いこと更新をサボっていました。

最後の更新が2007年1月なんで、2年以上も放置し続けている事になります。
前ブログにコメントを書き込んで頂いた皆様、この様な返事になってしまい申し訳無いのですが、どうもありがとうございますー

何だかんだ見て頂いている方々に対して若干の後ろめたさを感じながら悶々と日々を過ごして…は無いのですが、始めたんだったら最後までやんないとね、ってな訳で再開しようと思います。

以前の物をベースに若干の加筆修正を加えて、再び一から書き直す事で自身のモチベーションを上げて取り組めるんじゃないかと思っています。憶測に過ぎませんが。


初めて見て頂いた方には、どうも初めまして。

2003年10月に「骨髄異形成症候群」で入院。
2004年5月、骨髄バンクから非血縁者間、一座不一致で骨髄移植。
2005年1月、色々ありながらも何とか退院。
2009年現在、無事にしぶとくやってます。

今から振り返るソレに関わるアレやコレ等、しょーもない話ですが、楽しんで頂けると嬉しいです。
病気になった甲斐があるってものです。

(運良く)前のブログから辿り着けた方には、どうもご無沙汰しております。
双六で言えば『振り出しに戻る』のコマに進んでグルグルドーーン!!したと思い、温かい目で見守ってもらえると嬉しいです。

炎上する事なく無事書き切れる事を願って。

                                      マツモト   

at 03:22, kentaweller, -

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〜2003年10月10日

 当時僕は名古屋市東区白壁、名古屋では高級住宅地…の片隅にひっそりと佇む築ウン十年のマンションに住んでいて、
そこから自転車で10分位の距離にある小さなフランス料理屋、っても所謂ビストロなんだけれど…に勤務していた。
オーナーシェフと従業員は僕一人、アルバイトの子が一人。
基本的にその人数ですべての業務(仕込み〜ランチ〜仕込み〜ディナー)をこなす為、拘束時間はだいぶ長く、給料はだいぶ少なかった。
まぁ、この業界はどこもそんな感じですがね。

幸か不幸か、ランチ以外はそんな忙しい訳では無かったのでその人数で何とか回す事は出来ていた。
仕事以外でもかなり不定期ではあるけどもロックDJとしてのかなりささやかな活動もしていたし、酒はたまには浴びる程飲んでみたり、タバコも海原雄三に怒られたら止めようとは思ってはいたがほどほどに嗜んではいた。


8月、サマーソニック@幕張のRADIOHEADの興奮が抜け切らずフワーってなっている頃、体中に赤い発疹みたいな点々が色々な所に出来た。
そこら辺が酷くむず痒い。
ダニだと思った。
直前に先輩の引っ越しをドカンと手伝った時にでも貰っちまったものだと思い込み、ムヒを体中に刷り込み、部屋にはバルサンを炊き、友人達からはダニー松本と呼ばれるようになった。

中々症状が回復しない。
心配になって近くの東方端交差点付近にある総合病院に行ってみた。
受付のキレイなお姉さんにダニに食われちゃって…って話すのは中々アレだったので皮膚の発疹が…と言い張り、皮膚科のドアを叩いた。
「ダニですね」
診断が下りた。
当時僕はあーやっぱりダニか、しかしこんなに体中から発疹が出るなんてどーなってんだ。とかとか思っていたのだが、今にして思えばあれは明らかに血小板減少における毛細血管レベルでの内出血だったんじゃないかなんて思ったりする。
いやー、まぁダニによる炎症もあったとは思うんだけど真相は闇の中。


9月半ばから末にかけてよく風邪を引くようになった。
ずーっと熱っぽい。
時には38度を超えたり超えなかったり。
でも仕事を休む訳にはいかない。
休んだらお店が大変な事になってしまうのは明らかである。

そうこうする内に10月。
左足の付け根、所謂そけい(鼠径)部に痛みを感じるようになり、それが次第に腫れ出す。
歩くとジンジン痛む。
でも仕事に行く。
出勤途中200メートルくらいの坂道があるんだけど、上り出してすぐに止まる。
足の痛みとはまた別で目眩が襲って来た。
一般男子なら立ち漕ぎ無しで行けちゃう位緩やかな坂道。
それも上れない。ゼーゼーと息切れ。
後からしてみれば赤血球が少なくなっているから、だけど。

ついには左足もも全体が1.3倍位に腫れ上がった。微妙な数字だから1.5倍と言う事にしておこうか。
それに伴い体温も上昇。38度後半は行ったんじゃないかなぁ…
偶々居合わせた猫娘も結構引いてしまうくらい弱っていた。

夜の内にオーナーにメールで朝イチで病院へ行く事を伝え、朝9時前にタクシーでその病院へ。
朝の病院は爺ちゃん婆ちゃんでごった返している。
その荒波をフラフラになりながらも掻き分け、外科へ。

「うわぁ、リンパ節に膿が溜まってるね」
鼠径部には大きなリンパ節があり、そこが大変な事になっていたのだった。
麻酔をし、メスで切開。
そこに5センチくらいのストローみたいなドレーン管を刺し、
腫れている全体をググググググっと圧迫。
すると管からドロドロのアレがソレしてくる。
この間激痛。

ある程度出したらもう少し差し込み、もう1ラウンド。

管を差し込んだまま消毒し、ガーゼでグルグルグルぐるぐる…

点滴ルームへ行って抗生物質をドクドクどく…

そして松葉杖を借りてタクシーで職場へドーン!した。

思っていたよりも時間を食ってしまい、営業開始直後にようやく到着。
何となく大将も機嫌が悪い。
まぁ、しょうがない…ですねぇ。

その次の日、10月10日に再び通院。
ガーゼを交換し、念の為血液検査をし、抗生物質入れる。

ランチ終了後、3時半頃かな?病院からtelが入る。
ちょっと調べたい事があるから直ぐに来いとの事。
で、少し仕込みをしてから松葉杖でフラフラ歩きながら病院へ向かった。

秋晴れそのもの、良い天気だった。


【続】

at 03:09, kentaweller, ずっと前 vol.1

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2003年10月10日

 店から病院まで約700メートルくらいで、その道中は店に戻ってからの仕事の段取りをボーッと考えながら歩いた。

東方端の交差点にはかなりローカルながら有名人が居て、その何が有名かと言われれば、
・40代男丸顔
・白のキャップに黒ぶちメガネ
・何故かハイヒール
・指には赤いマニキュア&プラスチックの指輪がいっぱい
・腕にはおもちゃの腕時計がこれまた沢山
・時にはストッキング着用
・ママチャリ
・交差点の角の辺りにいつも佇み、車が通る度にその右手をその進行方向にピュッと差し出す。(交通整理みたく)

いやー怪しい。僕らの間では「ウォッチマン」と呼んでいた。
あ、しまった。どうでも良い事書いてしまいましたね。

ウォッチマンがいつもの所に居るのを確認し、半笑いで通り過ぎ、病院へ。

いつもの外科に向かう。
しかし、何故か内科に行くように言われる。
訳の分からないまま内科のドアをノックして入室。
血液の数値がどうのこうの…とか先生が言った。
??
その先生は僕が中学生時の部活(軟式テニス)の顧問に似ていた。
名は織田。
饅頭みたいな顔をして三菱のデリカに乗っていたので「織田マン」とか「マンデリ」とか言ってたっけなぁ。。。とか思い出したりした。
話を聞いていると、今日から入院、との話。
ちょっと待て。
何がどうで何故入院しなければいけないのか。
織田マンに訊いても「今は汎血球減少症としか言えない」とかとか。

普通に考えれば緊急入院になってそんなピンと来ないよく分からない病名言われたら何かしら恐怖を感じたりするのだろうが、いやー恥ずかしながら僕は呑気なもので人生初の入院に正直ワクワクしたし、『検査』入院と言う響きに惑わされどうせ1週間くらいの入院で無事釈放されるだろうとタカを括っていた。

店にtel。突然の事に向こうもびっくりしていたが、まぁそうなっちゃったんだから…と。
続いて実家の母親に。
当たり前の事なんだがびっくりし、急いで名古屋に来ると言う。

その後、CT撮ったり、耳たぶに軽く穴を開けて出血がどの位で止まるか…などの細々した検査。

内科病棟に連れて行かれ、処置室へ通された。
ん?処置室?
骨髄を調べると言う。
そう、俗に言う「骨髄穿刺」だ。通称「マルク」
胸骨から骨髄を抜くのをマルクと呼び、腰骨から抜くのをルンバールと呼ぶ。
僕は終止一貫としてマルクだった。

「痛く無い人と痛い人が居る」と看護士さん。
胸をイソジンでベトベトにされ、丸い穴が開いた紙を被せられる。
局部麻酔。
もっとフランクな、カジュアルな感じで終わると思っていたのだが、予想外の物々しさに若干ビビる。
織田マンが金属のストローみたいな針で一生懸命僕の胸をほじる。
針が僕の胸骨を抜け、骨髄まで達した。
「はーい。じゃ骨髄を採りますよー」
とか言うと、何かすごく変な感じ。
胸が詰まると言うか、息が出来なくなると言うか、に襲われた。
キュンとする感じ。

痛いと言うか、痛く無いと言うか…何とも言えないですね。
とりあえず脂汗がいっぱい出た。


そんな風呂上がりみたくぬーっとしていると静岡から母親到着。
一回自宅へ戻り、荷物を取りに行く。
タクシーで5分位。
着替えと少量のCDとか本とか。
その日の自分の部屋の光景は今でもよく覚えている。
薄暗くてぼやけていて、自分の居場所ながらどこかよそよそしく感じた。

病院に戻り、母親と一緒にもう一度織田マンの話を聴く。
「血液中の血球(赤血球、血小板、白血球)が何らかの原因で減少しており、現時点では汎血球減少症としか言えない。原因としては葉酸とかのビタミン減少、並びに…」とか長い話をしてくる。最後にボソッと「白血病とか、再生不良性貧血の疑いもひょっとしたら…」
そんな現実味の無い話は正直気にならず、只の不摂生による体調の不良だと思っていた。

採取された骨髄は愛知医科大へ送って検査してもらうのだそうな。
大体3、4日で返事が来るのだそう。
で、初の入院。
初夜である。
あんな事やこんな事が起こってしまうかもしれない。むふふ

同室は糖尿病のおっちゃん1人。
気さくに話しかけてくれる。
何か起こるかもしれない。
内科病棟勤務の看護士さんも年配の方が多い。
何か起こらなくて良いのかもしれない。


大体想像ついていたのだが、飯が美味しく無かった。
毎朝ロビーに届く新聞をおっちゃん同士が奪い合ってた。
耳の早い友人数人、お見舞いに来てくれた。
当時の御時世でも珍しいとは思うんだけど、屋上に喫煙スペースがあった。
夜中そこでの一服が気持ちよかった。
テレビ塔もばっちり見えるぜ。
人生初ウォシュレットを使い、軽く癖になった。

あっという間に3、4日経った。
織田マンは検査結果を中々教えてくれない。どういうこっちゃ?
訊きに行ってもまだ出ていない、の一本槍な返事。

そして6日後の2003年10月16日を迎えた。

【続】

at 01:33, kentaweller, ずっと前 vol.1

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2003年10月16日

 その日はとっても気持ちよく目覚めた。
天気も良好。
僕は午前中にシャワーを浴び、おっちゃん達が読み散らかした朝刊に目を通し、同室で糖尿病のおっちゃんと一緒に散歩に行き(内緒で)、その帰りに寄ったコンビニでエロ本を物色し、偶然其所に来た友達にばったり遭遇し焦ったりしていた。
で、
帰って来てからは病院の自販機でグレープフルーツジュースを買って屋上の喫煙所でタバコを吹かしてイイ気分になってもいた。

母親の後日談ではその時の僕の顔はすごくご機嫌な顔をしていた、らしい。
今も覚えてるって言うからね。

その時、其所に母親が登場。
? 何で来てんの??

本当にびっくりした。
だって仕事中でしょ??
何故、其所に、突然、母親が来てるのか。

きっと検査結果が出たのだ。
漸く、ようやく今日こそ結果を教えてもらえる訳だ。
っても何故僕にその事を伝えてこない?若干の気持ち悪さが残る。

親の話では
「両親が揃った状況でなければ結果を教える事は出来ない」
んだって。

父親は勿論仕事中。
母親から連絡が入ったらしく、定時で上がって名古屋に向かってくれるらしい。

でもでも、一応僕も成人な訳で、そこに母親が居るのだったら何も問題無いだろうと思って主治医の織田マンにその旨を伺ってみた。勿論成人らしくね。

答えはノー。
漸く思った。こりゃヤバいんじゃないのか?

血の気が引いた。
2人で病室に戻り、無言で時間が過ぎるのを待つ。
軽く放心状態になった。
いや、マジで。
怖い。
逃げ出したい。
今僕の体に何が起こっているのか。
時間が過ぎれば分かるんだけど、中々…
布団を被って何かに怯える。
母親は黙って週刊誌を広げる。
あの時間は本当に長かった。

漸く夕方。
ご飯食べたのかどうなのか、いやー分からない、覚えていない。
父親の到着を待つ間に落ち着いたのは確かだ。
で、
肝心の父親なのだが、慌てて、慌てて、慌てすぎて名古屋高速にはまり込んで到着が遅れる。
東方端までの道を説明する。

夜9時前に到着。遅っ
到着後の父親は何か風呂上がりみたいな顔をしていた。

さて、いよいよ…
ってのに織田マンはこの期に及んで「先に両親に説明を…」と抜かす。

丁度友人カップルがお見舞いに来てくれていたので3人で屋上で雑談。
緊張を解きほぐす為にか、よく喋ったのは確かだ。

30分後、母親が僕を呼びに来た。
会うなり
「実家に帰るよ!!」と言い放つ。
若干赤ら顔である。

結果は「骨髄異形成症候群(MDS:Myelodysplastic Syndromes)」
むむむ、

簡単に言ってしまうと…
まぁ、名前の通り、造血細胞である骨髄が正常で無い(異)状態で形成され続ける病気の総称。
白血病もそう言ってしまえばそうなんだけど、あぁ、もう面倒くさい。
血液のがんの一種を患った訳です。

僕の場合、その数種あるMDSの定義上、芽球増加型不応性貧血のタイプ鵺(RAEB鵺)にあたる訳であった。
白血病よりも病気の進行は緩やかで徐々に白血病化(白血病細胞=芽球が増殖)していき、それが全体の20%を超えると急性骨髄性白血病(AML:Acute Myelogenous Leukemia)に進化した、と言われている。でもでも、病気の進行がAMLと比べてずいぶんゆっくりと進んでいく為病気自体がしぶといのかどうなのか、抗がん剤投与による完治は無いとされている。

…らしい。
「織田マンが僕に会ったら必ず言う台詞、
ビタミン、葉酸、鉄などの不足によるなにそれ…ではさすがに無かった。

ここ見ると今でも泣きたくなってしまうんだけど…それは若年層の患者が少なく、根治療法である造血幹細胞移植に進む患者が中々少ないだけだと、勝手に思っています。
生存率10%って…

意外と冷静に話を聞いていた、らしい。
うーん、ボーッとしていたと言う方が正しいと思う。
織田マンがボソボソ何か言ってるのを「へーそうなのね」ってな感じで。
すみません、かっこつけました。
でも別に取り乱してはいなかったので、まぁそんな風。

とりあえず、訊いた事は…
Q 骨髄採取時の白血病細胞の数は?
A 16%
Q 正直に言って完治の可能性はあるか?
A 移植を行い、成功すれば十分にある。
Q 何処の病院で治療を受けるのが良いか?
A 実績のある病院を5件ほどリストアップします。

その時初めて知ったのだが、日本で骨髄移植が行われたのが名古屋で、血液疾患に於いては進んでいるのだそうな。
5択から鶴舞にある某国立大学病院と八事にある赤十字的な病院を選んだ。

正直何処でも良かった。
んなもん治るんだったら何処でも良い。
いや、中村方向は何となく嫌だったけど。(お住まいの方すみません、僕の偏見です)
織田マンが得意の朝イチで連絡を取ってくれるのだそう。
HPのプリントを頂く。

で、両親と協議。
母親的には当然の事ながら実家に近い浜松で治療を受けてほしい、との事。
でもでも、僕は何年もこっちで暮らしているんだからこっちで治療を受けたい旨を伝えた。
父はこう言った時にはほとんど自由にさせてくれた。勿論今回も。
母も目が潤み、うなだれながらも了承してくれた。どうもありがとう。

2人ともだいぶ疲れていたので僕の家で1晩休んでいくとの事。
そりゃ疲れるわ。


屋上に戻り、友人に病気の事を伝える。
2人とも言葉が出なかったらしく、僕の方が気を使って何かどうでもいい話をしていた。
リアクション薄っ。
当たり前だ。
ま、そりゃ何も言えないよね。

僕から発散された負のオーラに祟ったのかどうなのか、その2人はそれから上手くいかなかったらしく、その後すぐに別れましたとさ。ゴメン


2人が退散した後、職場の大将にtel
「えーこれからお店どうしたら良いの?」とかおっしゃって頂いた。
「まぁ、まっちゃん(僕)も大変だけと思うけど、色々頑張って」と熱い激励も。
まぁまぁ、そんなもんでしょう。
個人経営だから、年末に向けてこれから人手が欲しい季節だから、僕が唯一の従業員だから、etc…
僕が入院中お店で切羽詰まっていたのかもしれない。
だから、別にそれについてとやかく言うつもりも無いし、向こうにしてみたら純粋に「困ったなぁ」という事態なのはよ〜〜〜く分かる。ごめんなさい。
そっちも余裕無いのは分かるけど、僕も無いんですよね。
んなかっこ良い事言ってても、電話中そんな風に言われて顔は強張ったのは認めます。


テレビ塔を眺めながらしばらく夜風に当たる。
誰にもどうしようもない事態である。

消灯後、トボトボ部屋に戻り、同室のおっちゃんのベッドに潜り込み…
と言う事はしていないのだが、色々良くしてくれたので自分の病気の報告&明日転院する事を伝える。
おっちゃんは涙ぐんで、
「多分これで会えなくなると思うけど、、頑張れよ」
とかそんな風に言ってくれた。
ありがとうございます、今でも元気です。

その日は消灯後もずっとテレビを付けっぱなし、これからどうなってしまうのか、とか色々な事を思い、悶々と過ごしていた。
朝方少し眠れたのかも。


【続】


at 03:16, kentaweller, ずっと前 vol.1

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2003年10月17日

なんだかんだやっぱり寝たと思う。

でもでも、当たり前なんだけど中々寝れない。

病気が病気だけになるべく早く治療に入らねばならないんだけど、そんなのは分かっているんだけど、やっぱ…怖いっす。
他所の病院にがん患者として出向く訳だ。

僕は「がん患者」な訳だ…。

治すしか無い。
治すしか無いんだ。放っておいたら確実に「死」なのである。


むぅ…



覚悟を決めた。
生きたいなら逃げる事は出来ない。

前日の夜中、死んだ魚の様な目で深夜番組を眺めながら確かにそう思った。

でもでも、やっぱり怖くて、その日に買ったエロ本の後半の広告に載ってた出会い系サイトの無料体験に登録して少しやってみた。
馬鹿だな、僕は。何やってんだ。

いつもなら深夜にテレビが点いていると怒る看護士さんもその日だけはそっとしておいてくれた。
ありがとうございます。


織田マンが珍しく約束通り朝イチに来てくれて転院についての問い合わせの結果を教えてくれた。
一応、僕の第一希望は鶴舞の病院で、別に理由は無いんだけど公園の前にでっかいのが立ってたよなぁ…とかそんな理由で。
色々な施設も充実している様な事を聞いた様な。

しかし、向こうの返事はベッドが空いていないのでもしご希望ならベッドが空くまで市役所の隣にある国立病院で…との返事。
そんなめんどくさい事はイヤダ。
昔友人が十二指腸潰瘍で入院した時に目の当たりにした、ちょっと年季の入った感じが何とも言えぬアレだったのでその2つはパス。

第二希望の八事。
前夜に貰ったHPのプリントには症例数は全国一と紹介されていた。(当時は)
しかしそこもベッドに余裕が無いそうな。
ところが当時の血液内科の部長先生が「ベッドなんて後で何とでもするから早く来て治療せにゃ」みたく言ってくれた。
そんな事言われりゃ勿論行きますよ、ねぇ。

転院先は八事に決めた。
八事と言えば僕が名古屋に来て最初に住んだ町である。
甘酸っぱい物も多数眠っている。
昔の彼女に会ったらどうしよう。
これは何かの怨念なのかもしれない。

午前中の内に早速母とタクシーで向かう事になった。

東方端の病院では約一週間の入院だったが何だかんだ思いが募った。
織田マン、おばさん看護師の方々、屋上、喫煙所、不味い飯、白壁、泉、東区…
何か遠い所に行ってしまうようなそうでないような。

内科病棟を出る時、病棟の皆が見送ってくれた。
どうもありがとう。
あんま喋った事無いおばちゃんが半泣きで「あんた、頑張んなさいよ」とか言ってくれた。
ありがとうございます。
松葉杖を借りっぱなしで家に置いてあるのでいつか返しに行かなければならない。

タクシーの中で何を喋ったんだろう。
大体20分くらいかかる。
名古屋に遊びに来ている母とタクシーで移動中、みたく取り留めの無い会話を。
道中当時住んでいた辺りを通過。
あー懐かしいわね。あんたあの時、どーだこうだ…
2人とも沈黙を嫌がっていたんじゃないかなぁ。

病院に到着。
現実は待ってくれない。
救急外来の窓口に行く。

まず足の付け根、鼠径部の傷をなんとかしないといけない。
白血球減少により、抵抗力が弱くなっている為、そこの傷口から何か入ったら面倒くさい事になる。
救急病棟24時みたいな番組に出てきそうな広々とした部屋に連れて行かれ、外科の先生が来て足に刺さったままのドレーン管を抜きにかかった。

膿はもう出ない。
その最中、カーテン越しに若い女性の悲鳴。
お隣さんはどうやら花屋の方で、仕事中ハサミでお手てをザクッとやっちゃったらしい。
「麻酔してもここは効きにくいよ」とか言われてるし…
麻酔無しで縫合しているようだ。
その間僕はストレッチャーの上でパンツを脱いだ状態で処置をしていた。
聞いてるだけでゾッとし、別に大きくも無い僕のソレがキュッと縮んだ、かも。

処置が終わり、僕は個室に連れて行かれ、血液内科の先生を待つ事になった。
個室に移る時、救急外来の待合室にじっと座っている母親の顔が見えた。
顔が強張っている、いや、真顔なのか。
どこか一点を見つめている様な、そんな顔をしていた。
母の真顔を久しぶりに見た様な気がした。

暫くして先生が登場。
名前はI野先生。
甲府から単身赴任中の少しおどけた感のあるナイスガイである。
「さーて、早速だけど骨髄採ろうか」
ここの病院では骨髄穿刺(マルク)に使う極細の金属製ストローみたいな針は一回一回新品を使用してるから針に自信があるのだそう。
って今から思えばそりゃそうだろ、とか思うけど。
ひょっとしたら当時はまだそんな風だったのかもしれない。
アレは何回やっても緊張して嫌な汗が出る。
脂汗。
先生は骨髄をプレパラートに少量落とし、ドライヤーで乾かしている。
「夕方には結果教えますねー」
どうやら僕の担当医になるらしい。


その後、1病棟6階の血液内科の病棟に移動。
普通に歩けるのに車椅子に乗せられての移動。
その病棟は血液内科と内分泌内科の混合病等だ。


師長さんからの挨拶を受け、ベッドが空くまでミーティングルーム的な個室にベッドと共に運び込まれ、病室が空くのを待った。
丁度夕方にひとつベッドが空くようだったのでそれまでそこで待機。

母はちょっと買い物に行ってくると言って部屋を出る。
独り残された僕は自分の病名を友人に知らせようと思った。
色々な人にねぇねぇ僕ってばこんな病気になっちゃって…とかそんな風に言えないので、the ARROWSと言うバンドをやっているRだけにメールを送った。
後はそいつからうまい事伝わって行くだろう。
酷い話なのだが、自分の彼女(以後猫娘)にどうやって自分の病名を伝えたか、正直覚えていない。電話なのか、メールなのか。昨夜なのかその時なのか。
どちらにしても返事は中々帰ってこない。そりゃそうか。

母は入院受付を済ませ、本屋で妹尾河童さんの「少年A」とか何だかんだ買って来てくれた。

そうこうする内にちゃんとした病室に移動となった。
部屋は6人部屋の窓側。
向かいは僕と同年代っぽく見える。
M木君。
悪性リンパ腫で入院中だ。髪はまだある。
熱烈な阪神ファンでデイリースポーツが山積みされている。
軽く挨拶。ひとつ年下。
話をしている内にその日担当の看護師さんが登場。
あら、いいですねぇ
ってか、八事に来た時から思っていたんだけど若いコが多いねぇ。

前の所がアレだっただけかもしれないんだけど、いやいや、ずっと気になっていた。
軽く感動を覚えた。
食事も前の病院よりはずっとましだ。(思えただけだけど)

まぁ、そんな感じで過ごしていると先生が来てマルクの結果を教えてくれた。
2003年10月17日の時点で骨髄中の芽球(癌化した細胞=blast)の割合が21%。
1週間で大分増加した。
僕の病気、骨髄異形成症候群の分類で言うと、RAEB鵺から進行して急性骨髄性白血病へ進行したと言う事になった。
赤血球5万(通常の約3分の1)、血小板5万(同じく)

まぁ病名が何であれ、治すしか無いのだ。

とか思いつつも前日の寝不足のせいで一気に眠たくなり、隣のおっちゃんが消灯後に自分の息子を可愛がっている音も(何故か)暗闇に響き渡る電気髭剃りの(ような)音も気にならず、眠りについてしまった。

【続】

at 13:56, kentaweller, ずっと前 vol.1

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2003年10月18日〜

 よ〜く寝た。

確か、転院したのが金曜日か何かで土日を挟んでしまう為治療に入るのは月曜日から、と言う事になった。
その2日間、何をしていたのだろう。
本を読み、それに疲れると病院内をウロウロし、それに飽きたら自分のベッドに戻って音楽聞いたり、今までに書き貯めたレシピを整理したりしていて、積極的に他の患者さんとコミュニケーションを取ろうとする事は無かった。
ほら、人見知りなんすよ。僕って。

耳の早い友人達がパラパラお見舞いに来てくれた。
まぁ、日常生活は普通に(病院内で生活する分には)元気だったので、他の人から見たらこいつ入院して来たばっかなのに元気だねぇ、とか思われてしまうくらいに普通に過ごしていた。
別にかっこつけて言ってる訳では無いんだけど、現実を受け止められずに自分の部屋で籠りっきりで、では無かった。
もう腹は括った。のである。
当たり前だけど皆に対して羨む気持ちは無くは無かったけど…いや、勿論ありましたけど。

余計な事は考えない様にしていた。ってか、考えていなかった。
病棟のアイドル、泉ちゃんってコ(同い年?)が居て、18日の日中の担当だったんだけど、朝8時の採血に来た時は天使に見えていたもん。
後光に近い物が見えた。
ドキドキしすぎて10時の血圧の時なんて本当に20程高かったし。120→140位に。


部屋は俗に言う「大部屋」で、6人の患者がそこで寝起きしていた。
偶々若い患者が多かった時期みたいで僕を入れて3人若いのがそこで暮らしていた。
向かいのM木君とは挨拶はするけど必要以上の事は喋らなかった。
もう1人はK藤さんと言う方で僕よりも4つ程年上だった様な。
K藤さんも悪性リンパ腫で入院中だった。


月曜日、とうとう治療に入る。
先ずは右鎖骨下にカテーテルと言う管を通す。
その管から点滴を繋ぎ、常時生理食塩水が流れてる状態で、必要に応じて輸血、投薬を行う。
マルクのときみたく、イソジン、紙を被せ、麻酔、切開。
カテーテルを通し、その管を皮膚に縫い付け、テープで固定。
ちゃっちゃっちゃと終わる。
管が鎖骨下の静脈を通る時何かスーッとする位で別に別にな感覚。
勿論ドキドキしっぱなしだったけど。
後でレントゲンを撮って無事通ってる事を確認。
体内のだいぶ奥、心臓に近い所まで先端が行くんですね。

それから輸血を少々。
赤血球、血小板共に通常の3分の1だったからそりゃそうか。
1パックづつ輸血。
うろ覚えだけど、血小板は1パック4、5万で赤血球は2万程するんだそうな。
これもうろ覚えだけど、輸血された赤血球は1週間弱、血小板は2、3日は持ってくれるらしい。

濃縮されている分色々な人の血液から造られているんすね。感謝。
国保の高額医療補助にも感謝。

カテーテルを通した事で24時間ずっと点滴に繋がれる事になった。
ご飯食べているときも、トイレでウンコする時も、半目開けて寝てる時もずっとだ。

翌日、いよいよ抗がん剤投薬。
なんて名前の薬だっけ…キロサイド、イダマイシン、もう1種。まぁいいか。

投薬は3日間。
3つの内のどれかが真っ青な色をしていて、そいつのせいでおしっこが緑or青に染まった。
薬によっては赤く染められたのもあったみたいでそっちの方が中々アレですね。
吐き気止めも定期的に注射。
想像していたよりも、と言うよりその時は別に吐き気の兆しなんて全く無かったので、あーこんな物なのか?とか思ったりしていた。

治療と同時進行で家族の骨髄の型を調べた。
HLAと言うのだが、親兄弟の中でこれが一致していればすんなりと骨髄移植へ進む事が出来る。
この検査は患者みたく骨髄を抜いて調べるとかでは全く無く、末梢血液、普通の採血で分かるものなのだ。
一致する確率は…兄弟が4分の1、親は約1000分の1らしい。親少なっ。
両親には悪いけども、兄妹しか期待していなかった。頼むぞ。兄ちゃん、妹よ。
単純に言ってしまえば2分の1。
確率は低い訳ではない。

このHLAを調べる為に検査費用が1人20000円程かかる。
通常患者側の負担となっているのだが、僕が入院していた病院の当時の(あくまでも当時は)部長先生の方針もあり、その費用は病院側が負担しようじゃないか、となっていたらしい。友人からお見舞いで貰った骨髄バンク発行の「白血病と言われたら」(2003年版)にも八事だけ費用が書いてなかったから当時はそうだったと思う。
本題からすれば小さな事だけど、そんな小さな事が嬉しかった。

結果は1週間後。正直不安であった。

抗がん剤のお陰で血液検査での芽球(blast,白血病細胞)の数は着々と減少しており、実感は無いけれど悪い細胞は少しづつ減っていると言う現状を素直に喜んだ。

情けない事に当時僕はPCを持っているくせに殆ど触らず、アナログな生活を送って居た為、病気に関する情報は前述の本と主治医、看護師さん達に訊いたりの2通りしか無かった。
その方が良かったのかもしれないし、あればあったで便利だったと今では思う。

ある日、前職場の大将が常連さん数人とお見舞いに来てくれた事があった。
未払いの給料(のほんの一部)を渡すついでに。
一緒に来ている常連さんの手前、コソッと握手する様に渡して来た。笑
何度話したか分からないくらい同じ話、自分の病気の説明をし、突然こういう形で退職する事についてお詫びをし、まぁ、なんとかやってみます的な事を話した。

余談なのだが、その日の夜、僕が入っている大部屋に空き巣が入った。
抗がん剤の副作用の一つに便秘があって、その時もトイレの一角に陣取って1人格闘していた。マンガ数冊とCDプレイヤーを持って。
うっかり、迂闊にも貴重品入れの鍵を枕の下に置きっぱなしだった為、あっさり持っていかれた。財布(カード類は親に渡してあったけど)、現金、そして…給料袋。
僕と同じくベッドを空けていた何人かが被害に会った。
24時間出入りは出来る訳だからお見舞いを装ってこっそり侵入する事は至って簡単なのであった。
良心が傷まなければね。
まぁ、僕がマヌケなのは間違いない。
若干凹んだのは言うまでも無い。


そうこうしている内に抗がん剤の投与も終わり、HLA検査の結果が出た。
今度のI野先生はじらす事無く、でもなかなか言い出しにくげに、目は泳ぎながらもでもはっきり言ってくれた。
「松本君、残念ながら『不適合』です。で、これからの治療方針なんだけど…」
先ずは骨髄バンクに登録し、僕のHLAと一致するドナー候補者を探す。
治療面では抗がん剤投与が終わった訳で、がん細胞が血液中に存在せず、なおかつ正常な数の血球が血液中に存在する様になる状態、寛解を目指していく。
と言う事になった。

僕は元々ネガな思考方法をする質で、悪い方を想像してそれが当たったら「ほーらね」とか思ってしまう。きっと期待してそれが外れるのが怖いんだよね。
でも当たり前の事なんだけど今回ばかりはそれが外れる事を望んでいた。
けれど、やっぱりこうなった。いつもの「ほーらね」の方がダメージが少なかったのかもしれない。
けど、こればっかりはそりゃ期待するでしょ。
でも、まぁそうなんだからしょうがないよねってな感じで何とか平静を保とうとする。

同席した母が先生との話を終え、部屋の外に出るとポロポロと涙をこぼす。
こーいうのを目の当たりにすると何かもう、どうにもやり切れない思いが。いやーアレはキツイ。

その夜、妹からもメールが入った。
内容は大体想像ついていたし、見るのが怖かったので2日後に見た。
心配かけまくっている駄目なアニキである。
僕は何か辛い事が起こると一人になる事を望む傾向がある、心の狭い人間なのだろう。
今もあまり変わってはいない。

勿論家族に対して心配ばかりかけているからそれに対して申し訳無い気持ちはありすぎる程あったけれど。

余談だが、不一致を知った友人達がもしかしたら…と言う事で自分達のも調べてくれ、と言って来た事があった。
でも、20000円と言う安く無い費用がかかる事と、正直一致の可能性が限り無く低い事。
その気持ちだけで十分だから、もし何か出来る事を…と思ってくれているのなら骨髄バンクに登録して誰かに提供出来る機会があればそうしてくれ、と伝えた事があった。

さっきも書いたけれど、骨髄異形成症候群における化学療法での完治は未だデータは残っていない。
親兄弟がハズレだった為、僕の場合はバンクに登録し、非血縁者から同種の骨髄を提供してもらうしか無い。
一致するHLAが見つかるだろうか?先ずは登録して調べてもらう他は無い。
とにかく移植を行う他は助からない。
骨髄バンクで一致が無ければ臍帯血バンクでやってやろうじゃないか。
分かりやすくて良いぜこんにゃろう。


抗がん剤投与から1週間。
まだ髪の毛は抜けてこないので、友人の美容師さんに来てもらって散髪をしてもらった。
どうせ抜けるんだけど…
彼女が言うにはトム=ヨークっぽくしたのだそうな。
データ紛失により写真はありませんが、むぅ、そうなのか?ってな感じですがね。
でもでも何かね、嬉しかった。

その2日後?かな。
普段通りシャワーを浴びて、下の毛を見る。
何と言ったら良いのか、『ツヤ』が無い。
所謂ビキニライン的な辺り、毛の下の皮膚をカリカリとする。毛が、抜ける。
毛を引っ張る。引っ張った分だけごそっと抜ける。
思わず息を呑む。
あ、頭も?
ぐっと掴んで引っ張るとわさっと抜けた。
うわー抜けたー、やっぱり抜けたー
風呂場で一人で騒ぐ。ちんこ丸出しで。
何かもう、テンションが上がってんのか下がってんのか分かんなかった。

次の日、坊主にした。
やけに興奮したのは覚えている。中学の時以来である。
丁度向かいのM木君も看護師さんに刈ってもらう所だったので序でにやってもらった。
僕はまぁ、男の子だからショックでもないんだけど、女の子はキツイんだろうなぁ。


写真は坊主寸前にいたずらされた自分。
やけに楽しそうなのは生来のエロ心からなのは言うまでもありません。

気がつけば11月。
薬のお陰で悪い細胞は血中には存在しなくなり、その副作用で白血球もどんどん減少していった。もうすぐ大部屋から個室へ移動する事になる。
空気清浄機が備え付けの「セミ・クリーンルーム」と呼ばれる部屋だ。

【続】

at 00:36, kentaweller, ずっと前 vol.1

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2003年11月〜12月中旬 セミ・クリーンルーム

 大部屋もだんだん慣れてきて同室の患者さんとも軽い会話を交わすようになっていたのだが、やっぱ色々気を使う訳で、疲れる所はあった。
なので、個室に移る事が出来ると聞いて結構嬉しかった。
でもでも、何で個室に移る必要があるのか、そこまでは考えていなかった。
僕の頭の中にあったのは『欲』だけであった。
ピンクとかそう言うのじゃなくて、気兼ねなく○○出来る。とかね。あらピンクな言い方になっちゃいますね。そうじゃなく、例えばヘッドフォン無しで音楽を聴いたり、映画を見たり、…ああ、もう良いや。つまりピンク一色であった。

当時僕の白血球は300。
これは結構、いや、めちゃめちゃ少なくなっていた。
基準値が3000〜5000位?だから、抵抗力が無くなっている状態なのだ。
口内炎とかそう言った類いの物は出ていなく、まぁ、(入院当初からの)いつも通りな感じでは居た。

今まで過ごしていた部屋を片付けている時、向かいのM木君がやってきて、経過が良好らしいので近々退院するとの事を伝えてきた。
僕がこれから行くセミ・クリーンルームは一応家族以外は入室禁止な為、ここでお別れとなってしまうだろう、と話した。
その最中、看護助手のおばちゃん2人が来て、荷物&ベッドを移動し始めた。
ここでお別れ。
まぁ、色々お互い頑張ろうね、ってな感じでバイバイした。
M木君は今でも元気だと思う。

さて、個室。
最高。
先ずは…テレビ。
前は有料だったんだけど、この個室は普通のテレビが備え付けられて居た。
1000円2000分だったカードが要らない訳だ。
早速PS2を接続し、三国志を。
ポータブルレコードプレーヤーを借りてあったので、自宅から持ってきたお気に入りやお見舞いで友人が持ってきてくれたレコードをかける。
優雅であった。
診察にきた先生もにやけてしまうくらいに寛いでいた。

その日の夕食はハンバーグ。何故か覚えている。
TVで野球のアテネオリンピック、アジア予選のVS中国が放送されていた。
長嶋ジャパンである。懐かしいね。
それを見ながらベッドでゴロゴロしていると、悪寒的な何かが。
だるい。
気持ち悪い。
そして、寒い。
抗がん剤投与から約1週間。気が緩んでいたのは確かで、あれ?これで終わっちゃうの?的になめていた。
ナースコールをし、体調の変化を伝え、とりあえず寝た。

それからもの凄い熱が出た。
1週間くらいぶっ続けで39℃〜41℃を行ったり来たりしていたらしい。
意識はあまり無かった。
朦朧。
混濁。

2日おき位で母が来てくれていたのも全然覚えていないし、意識が戻ると枕元に置いてあるゲロ受けにリバースして、リバースのし過ぎで何も出ない時は胃液を滴らせ、天井をボーッと見つめながら水かスポーツドリンク的な何か、ウィダーin的な何かを飲んで、また寝る。を繰り返していた。

その部屋は空気清浄機は付いてはいたものの、元々普通の個室だったので、トイレは部屋の外だった。一応部屋には簡易トイレが置いてあったのだが、まだまだそこまで割り切る事が出来ず、頑に外のトイレで済ませていた。
点滴スタンドをカラカラしながら近くのトイレへフラフラ歩く。
いつの間にか栄養点滴が繋がれていた。
大きい方は水分しか出ず。小さい方も勿論水分しか出なかった。勿論胃液も。

I野先生曰く、初めての抗がん剤投与の人には「敗血症性ショック」と言う物が起こる可能性が高い、との事。あー良かった。最初にこれで死にそうになった人の話を聞いたら本当にゾッとしたからね。

発熱から1週間ちょっと。
次第に発熱は沈静化し、それと共に食欲は戻っていった。
だいぶ痩せた。
5キロ程減った。
どんなんだ。

体調が戻ると再び其所での生活が快適な方向に向かった。
夜更かしが出来るのがとにかく嬉しかった。
本を結構読んだ。
特に前述の「白血病と言われたら」を。
怖いけれど自分の病気をちゃんと知っておこうと思った。
知ったからと言って助かる可能性が高まる訳では無いし、ひょっとしたら知った事で治療について疑心暗鬼になってしまうかもしれない。
でも知っておくべきだと思った。
目を背けたくなる事もいっぱい書いてある。
でもそれは只の統計であり、僕の事を書いてある訳ではない。
個人と統計は違う。

とにかく、自分の「縁」を信じてみる事にした。
色々選択肢がある中で偶然ここに辿り着いて今こうしている。
決して今は悪い時期ではないのではないだろうか?と、思うように努めた。

その頃には先月登録した出会い系サイトお試し体験版からの『出会いありましたよメール』も少なくなっており(酷い時は1日50件は来たから)、音楽、読書、三国志(厳白虎でクリア目指しましたが無理でした)に没頭し、母、猫娘からの差し入れを心待ちにし、看護師さん達と仲良くなっていく事に楽しみを覚えるようになっていった。

経過は順調、と言いたい所だったが血液中の数値が上昇していかない。
抗がん剤投与により、芽球が無くなり、それと共に白血球等も減少、時間の経過とともに減少した血球が基準値に戻る(=寛解)なのだが、中々そこまで行かない。
もどかしいのだが、こればっかりはどうしようもない。
僕の病気は造血細胞がゆっくりとガン化していく為、普通の白血病よりもしぶとく(治療抵抗性)投薬後の回復も遅いそうなのだ。
治療計画では投薬から1ヶ月後に血球が回復してくる計算だったのだが、それ以上経っても中々思うようにはいっていなかった。

気が付くと12月。

入院してから2ヶ月なんて本当にあっという間であった。

【続】

at 02:36, kentaweller, ずっと前 vol.1

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2003年12月 セミ・クリーンルーム〜大部屋復帰、誕生日

さてさて、早いもので12月。
皆が楽しみにしているあんな事やこんな事が目白押しな12月。
でも…
僕は個室に軟禁状態だった。
血球が中々思ったように増加してくれない為、基本的に部屋から一歩も出る事が出来ない。
トイレ行く時に部屋を出てると言えば出てるんだけど…出来てんじゃん。
部屋にはおまる的な簡易トイレが置いてある事から基本的にはココでスルのが決まりなんだけど、隣がトイレだったので、まぁ、そっちで。
僕と同世代の女の子にうんことかやっぱ見られたく無いじゃないっすか。ねぇ。何だかんだ言っても。
そこら辺は良い感じにユルくて助かったのかもしれないな。


で、話は逸れましたが、僕は外部との接触は禁止されていた。
親族(と猫娘)以外は基本的に面会謝絶。

事情を知らない友人が多数来てくれていて、ナースステーションで門前払いを食らっていた。
この場を借りて陳謝します。
ミニチュアのクリスマスツリーとかトナカイの玩具とか紙切れに書いたメッセージとか、ホワイト餃子とか。気の利いた人は料理書なんてものもお見舞いとして頂いた。
どうもありがとうございます。

体調はほんとに良かった。
前が前だったからだろうけど、何かもうひと仕事終えた気分。
病気の治療なんて目の前の事を少しづつ乗り越えて行く事しかできないんだけど、昔から「詰めが甘い」と言われ続けた男子としてはあんまり良く無いよね。
まだまだ始まったばっかじゃん。
せっかく5キロ痩せたのに、この期間ですぐに元に戻った。
極端だなぁおい。

一回だが、カテーテルが詰まってしまった事があった。
何かの拍子で点滴が早まってしまっていて、常時流れている生理食塩水が予定よりもだいぶ早く終わってしまっていた。その状態で時間が経つと血液の凝固によって針が詰まってしまう。当時は血小板も常人の8分の1程しか無く(それでも凝固はスル)、定期的に輸血をしていたので新しい針を刺す必要があった。
カテーテルは右鎖骨下、同じ所からは出来ないので左鎖骨下を切開して通そうとしたのだけど、そっちの血管が普通より奥の方にあるらしくカテーテルを通す事が出来ない。
なので左右鎖骨下に切った貼った縫った、痛々しい傷が数カ所。
右腕から少なくなってきた血小板を輸血しつつ左腕からカテーテルを通す作業、切って通して縫って貼った。どんなプレイだ。

ま、そんな出来事もあった。

僕が入っていた部屋は北側に窓があり、くどい様だが、一応部屋から出ては行けない事になっていたので約2ヶ月おてんと様にお会いしていない事になる。
無性に太陽の光を浴びたい。
順調に行けばもう個室から解放されてある程度自由な大部屋生活に戻れる筈だったんだけど、僕の病気は普通の白血病では無く、元の病気がじわじわと白血病方向に進んで行く病気なので、抗がん剤投与後の血球の回復もかなりゆっくりであった。
やっぱ、予定されていた物がその通りに行かなくなる事に対しての焦りはあったけど。

まぁ、しょうがない。

じっと待つ。
…信長の野望、鈴木家でクリア

じっと待つ。
…信長の野望、波多野家でクリア

そんなどうでも良い事を悶々としていたクリスマス間近の20日、当初の計画より大分遅れはしたが、なんとか血球も回復してくれ、主治医から大部屋復帰の許可が出た。

許可が下りたのが土曜の夕方で日曜日は病院の業務自体はお休みなので大部屋に戻るのは翌月曜日なのだが、もう堂々と廊下を歩き、物の多さに戸惑いながらも堂々と売店で品物を物色した。当時連載中だったカバチタレの新刊が並んでるのを見つけただけで小躍りしてしまう程に。

お見舞いに来てくれた人と会う事が出来るのが特に嬉しいよねー

太陽の光を浴びる事が出来たのは鳥肌モンだった。
日当りの良い非常階段の踊り場で縁側の猫のように過ごした。
当時、病棟の隣に新病棟の建設工事が行われており、窓の外では病人的には致死量なんじゃないかって位の土埃がわんさか舞っていた。
窓には「絶対開けるな」的なシールが張ってあったがたまに開け放たれたままになっていた。誰だそんな事をスル奴は。

1ヶ月以上隔離されてると大部屋事情も色々変わっており、若干戸惑った。
前述のM木くんの様に晴れて退院して行った人も何人かは居た。
相変わらず元気そうな人も居たが、様態が悪化してベッドから出られなくなったり残念にも亡くなってしまわれたり、なんて話もちらほら。
そういう病気なんだよ、と再認識させられた。


さてさて、クリスマスイブ。
幸か不幸かその日は僕の誕生日。
これまでも仕事柄別に心躍る何かがあった訳でも無いし、仕事に追われるばっかりであった。
それで今年は病院でメリークリスマス。
よっぽど縁が無いのね、こりゃ。

でもでも同郷の友人がホールケーキを持って来てくれたり、本やらCDやらピンク関係まで皆さんに気の利いたプレゼントを頂いた。どうもありがとうございます。
そして猫娘からの珍しく長い手紙に涙を落とした。

その日は中日の立浪、福留、井上3選手がイベントでやって来るし、普段は鉄骨を吊り上げているクレーンはクリスマスツリーのイルミネーションをぶら下げ、夕食にはチキンが出たりとうっすらとではあるが病院自体が浮かれたムードに包まれていた。

そんなクリスマスムードにほだされたのか乗っかってみたかったのかどうなのか、25日誕生日の看護師さんとプレゼント交換なんて今から思うと忘れてしまいたい位恥ずかしい事をやったりもした。

相変わらず馬鹿だな、僕は。
何やってんだ。

《続》

at 03:56, kentaweller, ずっと前 vol.1

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2003年年末年始

さてさて、クリスマスも過ぎ、僕は26歳になった。
体調は良く、血球もまぁまぁ、健常者と比べると少ないながらも安定していた。

骨髄バンクからの報告なのだが、適合者はまずまずの人数が居るとの事。
そこから『コーディネート』と呼ばれる作業に入る。

覚えている限りざっくり説明すると…(2004年当時の僕が聞いた記憶です)

1.バンクはその中(適合者のリスト)からランダム?に5人リストアップする。
2.そしてその5人にコンタクトを取り、提供の意思があるかどうかを確認する。(1人リストアップするだけで何万円かかかり、リストから1人消えたら1人追加、という風に随時追加して行き、その都度お金が加算されていく)
3.提供の意思表示してくれたドナー候補者はその後血液検査&再度HLAの検査を受ける(この費用は患者側が払う)
4.患者側はその結果を受けて数度の細かな検査を受け、ドナーを選定し、候補者側の最終同意を得る事が出来れば晴れて移植。

となり、ドナー候補者はこのコーディネートがどの段階まで進んでいようと作業を中断、キャンセル出来る。

お金がどうのこうのと誤解されるかもしれない書き方をしてしまったけど、自分の都合(病気)の為に「任意のボランティア」の方の貴重な時間を割いてもらう訳だからそれはそう言うもんだと思っている。何かのきっかけでバンクに登録してまさか自分に通知が来るなんて、ってなケースはよく聞くが、決して強制ではないから何時でもキャンセルはできる。

I野先生から言われたのは諸処の手続きが多い為、いくら早く行ってもバンク登録後半年は待たないといけないらしい。
その日までは病状の悪化だけは何としても避けなければならない。どうする事も出来ないけど…


気が付くと…もう年末。
別にいつもの感じ、ベッド上で年を越して普段よりもっとダラダラと過ごすんだろうと思っていたのに、I野先生が
「どう?調子良さそうだから年越外泊してみる?」
的な嬉しい一言。
大晦日の昼〜元日消灯1時間前まで。
嬉しかったんだけど、何なんでしょう、変なイジケ心からか、何か変なのもらっちゃうかもしれないから…とモゴモゴ子供の様な事言い、その数時間後に慌てて先生を捜し、やっぱり外泊します!となった。


外泊出来る。


先ず迷った。実家帰るか。名古屋で過ごすか。
移動距離、時間等色々考えたけれど名古屋の自宅で過ごす事に決めた。
両親も気持ちを汲んでくれ、僕の好きにさせてくれた。
あの時もその時もどうもありがとう!


大晦日。
昼過ぎに友人のキイチが病院に迎えに来てくれるとなっていたのだが、待ち切れずに午前中からやけにソワソワして、昼を過ぎてからはまだかまだかとイライラしていた。

外泊届けは昼食前に出したし、荷物は既に纏めてある。
携帯をずっと側に置き、握りしめ、開いたり閉じたり。

1時過ぎに到着。仕事(どっちかって言うと土木作業的な)で使っていたちょっとアレなハイエースで、乗り込むと懐かしいヤニの香りが。
あら、良いですねぇ。

車が走り出す。
とりあえず窓を開ける。
病院の、何とも言えない生温い空気とは違い、ひんやりとした空気が、兎にも角にも気持ちよい。

千種辺りのどっかで飯を食ってこうぜ、ってな話になり、食事の前に徐にビールを注文。
何か小学生のあの頃、実家の夏祭りの父親と伯父さん、爺ちゃん達がマージャンやりながら飲んでたビールを初めて舐めた頃の、そんな味。

そして食後。奴がトイレに行ってる時にこそっと一本拝借し、点火。
恐る恐る煙を吸い込み、吐き出す。
むぅ…
よく分からん。
美味いんか?不味いんか?タバコを口にくわえると言う行為はやっぱり良いねぇ。

夕方が近づき、大晦日特有の、静かなんだけど慌ただしいあの空気を感じながら広小路→R41→東区泉の超人気スーパー「マルキ」へ。
そこで今夜の食材を買い付け、そのまま清水口の交差点を抜け、釣具屋の上の自宅へ。
先ずは大家さんに挨拶。
大家さんの甥っ子さんも血液疾患、再生不良性貧血を患っていた為、コンビニ袋に入ったビール等を隠しながら暫くそういった話をした。バレバレだったけど。

築ウン十年のマンションの階段を軽くクラクラしながら三階まで上り、自宅のドアを開ける。
静かに片付いていて、他人の部屋の様だ。
母親がキレイにしてくれてたんだろう。


まぁ何だかんだつまみになりそうな物をゴソゴソ作っているとなんか変なのがゾロゾロとやって来て勝手に宴会が始まった。
始めの頃は幾分控え目に缶ビールをすすっていたのだが、焼酎のお湯割りを飲み始めたらその旨さにやられ、何杯もおかわり。

あくまでも『外泊』でありにもかかわらず、あたかも退院祝いの様な宴は早朝4時頃まで続き、そのまま東区泉の友人宅に合流する事になった。

そっちはそっちでまた凄い事になっていて、居るわ居るわ見知った顔が沢山。
病人の癖にここでも肉を焼いたり何だかんだやった。
性格的にもそんな事やってる方が気が楽なんだけどねー
腫れ物に触る的な、変に気を使ったりしてくれない所で大分救われた気がした。どうもありがとー

その時ほぼ初対面だった新栄のバー、マスバーの店主、ますやんは酔うと今でもこの話をするので軽くうざかったりする。しつこく覚えていてくれてどうもありがとう。

この界隈の皆さんは行き過ぎたジョークとワルノリが大好きで、まぁ、僕もその口なんですけど、その夜も色々あってゲラゲラ笑って、そんな事やってる内に朝を迎えた。

午前8時頃、猫娘と一緒に自宅へ戻り、そのまま爆睡。
しんみりとする暇が無く2005年が始まった。


翌日は朝8時に起こされる事無く昼過ぎまで寝て、その後少しゆっくりして夜7時頃病棟に戻った。
下界で買い込んだ本、マンガを抱え、またいつもの入院生活が始まる。


《続》

at 02:24, kentaweller, ずっと前 vol.1

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2004年年始〜一時退院

正月三が日にはおせち料理が出た。
正確に言うと、かまぼこ、昆布巻き、伊達巻き、田作…等とごはんと味噌汁、トドメに牛乳。
むぅ、何だかなぁ。
雑煮は出てなかった気がする。元旦に出たのかもしれないけど。
大晦日の夕飯も入院中経験無かったから一回立ち会うべきだったかな。

正月番組は相変わらずおめでとうございますおめでとうございますの連呼でちっともおめでたくは無い。
でも、「うっせーなぁ」とか思いながらも何故か口元が緩む緩む。
年末年始のあの感覚がまだ体内に残っていて、ふわーーっとした気分であった。
シャバの空気を吸ってしまった為である。

みんなこんなにも楽しい事ばっかやってんのか、と軽く嫉妬もした。(勿論それだけではないけど)
自分だって数ヶ月前までそんな事ばっかやっていたのに…
でもでも、確かに外泊する事でリフレッシュする事が出来たのは言うまでも無い。

朝8時に起きて、採血、朝食。
朝10時に検温、血圧。
昼前に主治医の回診。
正午に昼食。
午後10時に消灯。

入院生活を数ヶ月続けていると、それが当たり前の生活だと錯覚してしまう瞬間が確かにあった。病棟内には必要最低限の物は揃っていて、その中で沢山の入院患者が生活しているからある種のコミュニティー的な物が出来ていたし。

病院では(まぁ特定の人を除き)ゆったりと時間が流れる。……気怠い。けだるい。ケダルイ。
本を読み、映画を観、音楽を聴いていてもどうも何かが足りない。満足出来ない。

それがたった一泊の外泊でどうにかなってしまった。
素晴らしい。


正月休みも終わり、病院も通常の業務に戻った。
新年始まってからも血液には異常は見当たらない。
まぁ、ギリギリではあるが寛解の状態だ。
そんな状態がしばらく続いて居たある日、I野先生が言って来た。
「マツモト君さぁ、血液も落ち着いているし、病院に居てもする事無いからさぁ、一時退院してみない?」

ベッドは常に埋まっていて、空くと直ぐに次の患者さんがやって来る。僕も実際そうだった。
八事の其所は今直ぐ治療が必要な方の為にベッドを確保する必要があって、経過が良好な患者を一時退院させる事でベッド空けていた。飲食店っぽいね。回転していかなければ県内外からやって来る患者に対応出来ない。

次回の入院は骨髄提供のドナーが決定して移植を行う為の入院か、容態に治療を要する程の
変化があって(大体がんの再発)、その為の入院かどっちかだ。

もし再発を起こしたら今まで行って来た抗がん剤治療繰り返すんだけど、「治療抵抗性」と言う言葉があって、過去使用したクスリに対してがん細胞の抵抗力が上がってしまう。
簡単に言うと、クスリが効きにくくなるケースが多い。
同じ治療で寛解に辿り着けるか定かではない。
そもそも抗がん剤なんて猛毒だからね。それを何度も体に入れれば体にも良い事じゃないし。

当時の八事では一般的に急性白血病の抗がん剤治療は抗がん剤を3ターンに渡って投与する。
1ターン1ヶ月の3ターン3ヶ月長丁場だ。
最初の1ターン(抗がん剤投与→がん細胞消滅&血球減少→血球回復)を寛解導入療法と呼び、残りの2、3ターンを地固め療法と呼ぶ。これはあくまで順調に進んだ場合の話で、寛解に辿り着けない場合は薬を変えたり…と苦しいケースも多々あると聞いた。地固め療法も回数が増えるケースもあると聞く。

僕のケースは前にも書いた通り、抗がん剤投与による治癒(完全に治る事)は望めない為抗がん剤投与の回数は極力少ない方が良い。
11月の1発目、そして移植直前に行う前処置での2発目で終わるのが理想である。

もし、骨髄移植のドナーが決まらなければ臍帯血移植に進む事だろう。


あまり考えたく無い事ではあるが、再び血球が減少し、所謂「再発」の診断が下りたら…
僕の病気の性質上(MDSから進んだAML)、急激に減少する事は無いだろうから悪化のスピードも遅いと思われる為、対処は出来るだろうと。
退院して隔週の通院で様子を診ていきましょう、ってな話になった。

肝心のコーディネートの結果なのだが、中々良い知らせは届いて来ない。
こればっかりはどうしようもないけどね。
願うしかない。

退院予定日は2004年1月15日。
その前日、僕の人生で3度目のマルク(骨髄穿刺)が行われた。
もし骨髄中に変なのが見つかれば全てはNA.SHI.YOになってしまう。
緊張する。
3度目でも全く慣れない。
I野先生が麻酔をし(これが結構痛い)、僕の胸に例のアレをソレして来る。
緊張する。
僕はその日の担当ナースのT置さん(ちょっとタイプ)の手を握り締め…る事はしなかったが、その手前何気ない顔を作ってはいた。オタオタしていては男子的にノーである。
ま、脂汗はじんわり出ていたと思うけど。

緊張し続けている。
そうこうしている内に針は骨髄まで届いた、筈だったんだけどちょっと浅かったみたいで先生が一生懸命注射器を引いても骨髄を吸い取れない。
お上手に目が泳ぐ先生。
僕は「ははは…」と引きつった笑いで何とか取り繕ったが心の中では「早よしろって!」と思った。

結果は…異常なし。
晴れて一時退院が決まった。
期間は移植が決まった時か、再発を起こした時だ。
正直それは何時になるのやら。

半月分の入院費を納め、退院。
初めて自分の手でお金を納めた。(お金は親からですけど)
退院間近な為、そんなにクスリを入れてなかったので金額的に高くは無かったのだが、クスリも輸血もバンバン入れた11月の治療費は凄い金額になったんだろうなぁ、ありがとう両親、ありがとう高額医療補助。

何はともあれ、外での生活を許され、通院の事もあるから基本的に名古屋で静養する事になった。
先の事は分からないが、とりあえず外で生活を送れるってのだけで嬉しいよねー

《続》

at 04:55, kentaweller, ずっと前 vol.1

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