スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

at , スポンサードリンク, -

-, -, -

2004年1月15日〜2004年5月5日 一時退院 其の一

何が嬉しいかって、そりゃ全部なんだけど。
夜更し、遅起き、外出、買い物…
出来ないのは社会人としての日常を過ごす事だけ。

先ずはずっと自宅の駐輪場(ってか屋根も何も無い野ざらし状態だった)に放置しっぱなしだったマイスクーター、富士重工ラビットS301Aをメンテナンスに出す。
2002年頃に相模原の専門店で買った昭和38年式で、外見は当時のままな為、長い年月の経過によってイイ感じになっている。
僕が入院した事で初めて名古屋の自宅にやって来た父はそのウサギをみて愕然としたらしい。
「こんな物金払って買ったのか!」って。

まぁ、そう言いたくなるのも分からなくも無いが、とりあえずメンテナンスに出した。

バイク屋のマスターは基本無口な人なんだけど、病気について何やかんや訊かれるんじゃないかとあれこれ考えていたのだが、気を遣ってくれているのかどうか、病気については訊いて来ない。
帰り際に一応、自分の現状を話し、まぁ暫く外に居るのでそれまで宜しくお願いします、と挨拶。再入院時にバイクを預かってもらえれば…ってのが腹にあったんだけど、仕事に支障ありそうなのでそのまま収めた。

次回入院時は学生時代の友人、Kの家のガレージに置かせてもらえる事になった。感謝!


前の職場にも挨拶に行った。
約半年前に勤めていたとは思えない。
働いていた当時が夢の中の出来事だったんじゃないかって位、ある種の既視感に襲われる。
何のこっちゃ。
まぁ、そんな感じ。
十数年もの年月で染み込んだ色々な匂いは懐かしい。
嫌な話なのだが、給料の残りが未払いのままであった。
しかも、まぁまぁぼちぼちの金額。

ま、こうなる事は薄々分かっては居た。
歴代の従業員もそんな目に遭っていた。らしい。
僕の前に働いていた方のそれを目の当たりにした事もあったし…

今にして思えばだらしがなかった。
大将。だけでなく、それをさせている従業員達も。

法的?行政的?に言ったら勿論問題だ。そんな事する人が作った物なんてどうなんだ!と思う人が殆どだと思う。
でも、そう言った事では割り切れない『何か』を感じていたからそれを見ぬ様に懸命に働き、見習った。

駄目なんだけどね。
従業員の給料を払えないんだったら雇うべきではないし、店にしがみついたりせずに閉めて次の展開を考えるべきだ、と思う。現状に甘えていても何も良い方向には進まない。
僕は経営者をとしてのリスクは負っていないのでこんな偉そうな事をこうして書けるのかも。
状況を打開する為にも従業員の力が必要だったんだけど、その為に当時の僕ではあまりにも若く、無力だった、と思う。
今でもあんまり変わらない、かな?ははは。

だから、くれぐれも言っておくが、悪く言ってる訳では無い。


あー話が脱線。

入院中、年末、悩んだんだけど未払いの給料についてメールを送った。
振り込むから口座を教えてくれ、との事。
口座を教える。
「〜までに入金する」との事なのだが、やはり振り込まれていない。

「やっぱり!」何か笑えて来た。
しかし、入金が無かった事に腹を立てたオカンがお店に電話した。
が、
それでも入金は…無い。笑


何やかんや書いたけど、ともかく貰う物は貰わねばならない。
オカンのせいで(当たり前の事しただけだけど)余計気まずくなったが僕は断固たる決意を胸にお店に向かった。勿論アポ取って。

店内に入る。
新しい従業員の方が入っていた。
パイ生地を作っていた。
発病以来置きっぱなしでさっきまで使われていた(様に見える)自分の包丁を仕舞い、暫く談笑。

時間が経ち、そろそろ…となり、大将がワインセラーの陰へ。
やっぱりこっそりと手渡し。
有り難い事に日割り計算までして頂いており、
??
〆日が二週間程僕の記憶と変わっていて、本来頂ける金額からはちょっと離れた額になっていた。
色々あるよねーー

何も言う事が無くなり、店を出て向かいに事務所を構えている常連さんの行政書士の先生に挨拶をば。
今は事務所を畳んで引退してしまったが、当時は奥様、娘さんと3人で業務をしたいた。
僕はその先生によく可愛がってもらっており、色々な所に連れてもらった。どうもありがとうございました!!
最近体調が悪いらしく、「俺はもう駄目だ」的な事ばかりツイートしていた。

今はどうしているのだろう…元気なら何よりだけど。



まぁ、そんな事色々ありましたが、冬はもうすぐ終わる。
2月の寒い時期を過ぎれば春が来る筈。
外出時、最初の頃は何となくマスクをしていたが、鏡に映る自分の姿があまりにも怪しいのと面倒くさいの、イソジン携帯してるからまぁ良いや的なノリで何時しか付ける事もしなくなっていた。

《続》

at 01:39, kentaweller, ずっと前 vol.1

comments(0), trackbacks(0), -

2004年1月15日〜2004年5月5日 一時退院 其の弐

マスクをしていなければ(一応)ぱっと見何処にでも居そうな26歳の男。

でも普通の体ではないなだ。厄介な病気が巣食っている。
外で生活は出来ていても病気が治癒して日常の生活を送れている訳では無いのだ。

そこだけは忘れないでおこう、何度も強く思った。
現実逃避はしてはならない。
何も解決しないし、誰も救う事は出来ない。
それを目の当たりにした人も悲しませてしまう。
もうどうしようもないよねー

現時点で一番大事なのは周囲を見渡して、今現在何が必要で何をするべきか、考える事だ。

今でもそうだね。

当時の僕が目指す所と言えば、骨髄バンクから提供を受けての骨髄移植(該当者が居なければ臍帯血バンクからの臍帯血移植)を成功させる事。
なんだけど…そっち方面からは相変わらず何の音沙汰も無く、該当者は居るんだけど、そっから先に中々進まず、な感じが続いていた。

こればっかりはどうする事も出来ない。

ひょっとしたら突然決まるかもしれない。
その時に何か体調が悪く、予定日から逆算してちょっとリスクが高いかな、と判断されればその話はナシになってしまう。
1週間後に延期、とかそう言ったワガママは許されない。
提供してくれる人が居てこその骨髄移植である。

余談ですが、聞いた所によると臍帯血は瞬間冷凍してストックされているので必要に応じて使用出来る、らしい。当時は症例も少なかったから骨髄移植≧臍帯血移植だったのだが、あれから6年(!)も経っているのでデータもあるのではないか、と思ったりする。

「移植前にどう過ごすか、これが大事だ」僕と同い年で骨髄移植を先に経験し、元気に退院していったM田君も言ってた。


僕がすべき事はいつ(移植が)決まっても良い様に体調管理をキチンとする。
なので、自分を律しなければ。
大好きな音楽が流れる空間、クラブ、ライブとかには行かない。
行くのは治療が完了してからだ。
人の多い所へは行かない。人が多い時間はなるべく外出しない。
クスリはちゃんと飲む。
イソジンを携帯する。
帰ったらうがい手荒いを徹底。
酒は飲んでも飲まれない。
タバコは惰性で吸わない。etc...

小学生の抱負みたいだな。こりゃ。
当然と言ったらそれまでなのだけどネ。

必然的に引き蘢り気味な生活になった。
昔買ったCD、レコードを引っ張り出し、聴きながら買った当時の事を思い出して感傷に耽ったり、友人とレコ屋のバーゲンコーナーで掘り出し物を漁ったり。
ブックオフ黒川店で数時間立ち読みしたり、100円コーナーにあった「異邦人/カミュ」を熟読したりも。

夕方の「渡る世間は〜」の再放送を殆ど欠かさず観て、掃除洗濯炊事に始まって仕事の勉強その他諸々色々やっていた。

あの時間ってのは相当貴重な時間だったと思う。
勿論その真っ只中の時もその認識だったけど、今振り返ってみるともっと強く思う。
アレもやっておけば、コレもやっておけ良かった…とか思ったりもするけれど、それは今があるからの話。
当時、病気に対する不安があったにも拘らず楽しめたと言う事は意外とバランスの取れた時間を過ごす事が出来ていたのかもしれない。
ま、これも今があるからの話だねー

《続》

at 17:57, kentaweller, ずっと前 vol.1

-, -, -

2004年1月15日〜2004年5月5日 一時退院、其の参

一時退院してから初めて実家に帰った時の光景は今でも鮮明に覚えている。
両親が名古屋まで迎えに来てくれた。
当時は退院したてでまだまだ寒い時期だった。
自主的にマスクをしていた時期だ。

両親共に「名古屋へ行く」と言う行為にだいぶ慣れたようだった。良いのか悪いのか。
下りの東名、上郷SAの焼き芋がお気に入りで、こっちに向かう途中何時も買っているのだそうな。上りの方にはそれが売っていなくて、あんたに食べさせてやれないのがどうのこうの…と母がまくしたてる。
父はコーヒールンバが流れる挽き立てコーヒーの自動販売機がお気に入りだ。
確かに他と比べてましなコーヒーを飲む事が出来る。

近所の○○君が結婚しただの、△△ちゃんに子供が生まれただの、そんな話に適当に相づちを打ちながら見覚えのある風景を眺める。
気が付くと豊川IC
そこから下道で豊橋市内を抜け、静岡県湖西市へ。
愛知県豊橋市と浜名湖、に挟まれた人口4万人位の小さな工業都市……?だ。
ラテンの方々はどの位居るんだろう?結構いらっしゃいます。
僕の実家はミカンで有名な三ヶ日町(現在は浜松市北区三ヶ日町ですが…)との境目辺り、言わば僻地の僻地に当たる所にある。
僻地なんて言い方、言い過ぎかもしれないけど最寄りのコンビニは夜10時に閉店するのでまぁ、言い過ぎでも無いかなぁ。
もっと言えば24H営業のコンビニへはそこから歩いて10分位離れる。
だけど…一時退院中の当時はそこはまだ出来ておらず、更に小高い丘を越えてもう15分位は歩かないといけないんじゃないかなぁ。

白血病患者には到底無理な距離である。
…まぁ、車借りて行ってたんだけど。

一時退院して直ぐに(懐かしの)airH"を購入し、プロバイダ契約をし、次回の入院に備える。実家でセットアップしたのだが、やっぱり田舎な為、電波が来んがね。


まぁ、それは置いておいて、

実家に足を踏み入れると懐かしい光景が。
玄関の薄明かり、廊下の感触、台所の床の色。
兄夫婦&甥っ子2人、もう1人はお腹の中。
妹、そのカレシ。

皆が勢揃いしており、何だか恥ずかしい。
普段実家に帰って来た時と同じ様に、冷蔵庫を物色し、ビールを開ける。
父が浜名湖で釣って来た黒鯛を塩焼きにして食べた。
浜名湖の黒鯛はやっぱ旨いねぇ。

僕が元気そうで皆ほっとしているようだった。
それを見て僕も嬉しかった。

飼い猫は2匹に増え、外に繋がれている犬は相変わらず落ち着きが無く小屋の周りをウロウロ。

兄はお酒が弱く、すぐに顔を真っ赤にして滑舌が悪くなり、そのうち寝てしまった。
兄弟共に口数は多く無い方なのでいつも会話がぎこちない。
そもそもウチの家系は父方の遺伝が関係してると思うけど、滑舌があまり良く無く(叔父→父→兄→僕、と段々マイルドにはなっていると思うが)、あれこれ喋っても何か気持ち悪くなっちゃいそうだから、まぁ、そんなんで良いんじゃないかと思う。

その反面、義姉さんはよく喋る。帝王切開を3回もやるのはうんざりだ、とか長男が小憎らしくなってきた、とか兄が家の事を全然やってくれない、とかとか。

その長男は漸く「僕」という存在を認識し出したのか、構って欲しそうな視線を送って来る。(ちょっとサボっていたら来年中学生です)
次男はだっこされながら義姉の耳たぶをずっと弄っていた。んもう、スケベ。

甥っ子達とウイイレやったり、妹のカレの人生相談を受けたり(半分くらい適当な事言った気がするが)…

そんなこんなで宴は終わり、後片付けをし、兄夫婦は帰り、妹達は部屋にしけこんだ。
父親は翌朝の朝釣りに向けて床に就き、残された母親と僕はダラダラとビールを飲み、だらしなく笑い話をした。
昔隠しておいたAVは未だ見つかる事無く埃を被っていた。

翌日、母方の実家に挨拶に行き、祖父母、伯母とお昼御飯を食べに行った。
祖父ちゃんは元漁師、今は小さな畑で玉葱等をを作っている。大らかで悠々自適な生活を送っている。僕は昔っからお祖父ちゃんっ子だった。
祖母ちゃんも少し口うるさいが優しい人で、僕はこの2人が大好きなのだ。


伯母さんも面倒見が良く、気が利く人で、親戚の中では一番お見舞いに来てくれた人だ。
母親は4人姉妹の3人目で、この伯母さんは2番目に当る。
皆AB型で、皆仲が良い。
残念ながら、婿養子の伯父さんだけは、好きではない。
まぁ、親族の中にそう言う人って一人は居るよねー

祖父ちゃんは終始ニヤニヤしていた。本当はニコニコなのだが、顔の造り的にそう見えた。
何か喋る前に顔を右手でゴシゴシやる仕草がとても好きだ。
祖母ちゃんは相変わらず色んな事にキイキイ言っていたが、相変わらず可愛かった。

僕は幸運にもそんな環境の中で育ってきた。
家族、親族といっても所詮は他人、でも、好きな人達を悲しませる事はしてはいけない。
何とか元気にならねば、と思いつつ、実家で静養する時もあったのだった。


《続く》


at 19:43, kentaweller, ずっと前 vol.1

-, -, -

2004年1月15日〜2004年5月5日 一時退院、其の四

一時退院中の通院は隔週に決定。
外来時の担当医は血液内科部長、鬼のH林先生。
日本で始めて骨髄移植が名大で行われた時のメンバーだ。
今はだいぶお年を召されて、丸くなったっぽいが、きっと若い頃は怖い先生だったに違いない、というオーラがムンムンしている。

「君達みたいな若い患者を助けずに、何が医療だ。」
みたいな事を最初の外来時に言ってくれた。歳はとっても熱いオトコだ。
単純な僕はその言葉に感動した。


病院へは実家から東名で通うor自宅からポンコツバイクで通った。
まだまだ寒い季節だった。

血液は…
赤血球HGB…10万(正常値15〜20万位?)
白血球WBC…3000(5000〜8000位?)
血小板PLT…8万(13〜40万位?)
が平均だったと思う。

医学的に言う「寛解」ではない。
そこから上昇してくれないのだ。

本を読めば、骨髄異形成症候群(MDS)患者の非寛解時の骨髄移植後の5年生存率は。。20%。
何気に凹む数字。
前言った通り、(悪く言えば)元々治る見込みが薄い老人の患者さんが多い病気な事もその統計に少なからず関係があるだろう。
非寛解時と言っても当たり前の様にピンからキリまであり、少し少ないだけの人から明らかに再発してしまった人までそれに当る。

悪性の細胞は見つかってないから、悪くは無いよね、と前向きに考える事が出来れば良かったのだが、いかんせん、それほど前向きにはなれなかった。

隔週の通院の度に徐々に血小板が少なくなってきている。
8万が7万、次は6万ちょっと、みたくね。
僕の造血細胞も限界なのか?
このまま血球減少が続き、そのうちに悪性の細胞が増殖し出すかもしれない。
不安に怯えつつ、じっと待つしか無い。


そんな折、2月末くらいかなぁ、いつもの様に採血が終わり、診察を受け、少し雑談をしていた。
「今日はちょっと良いニュースがありますね。」と部長が言って来た。
何と、完全一致のドナーさんが見つかったのだそうな。

補足するが、骨髄の型、は大きく分けて6つある。
当然ながら拒絶反応の事を考えると、完全一致が望ましい。
1座不一致で移植のケースもあるにはあるが、それは親族からの1座不一致移植が多く、骨髄バンクからの1座不一致での移植はあまり無いらしい。
1座不一致のドナーは今までにも何人か該当者が居た、との事。
臍帯血移植の場合は、臍帯血(赤ちゃんの臍の緒から採取できる細胞)はそれ自体が未熟な細胞の為、6つの型(座)の内、4つまで一致していれば移植が出来る。
骨髄は成人から成熟した細胞を採取する為、『融通』が利かない。
融通が利かない、と言う事は移植による拒絶反応が強く出る事になり、その結果、死に至ってしまう場合も少なくないと聞く。

移植してからどんな臓器にどんな拒絶反応が起こるか分からない分、そのリスクを少なくする為に、なるべく良い条件でやる必要があるのだ。

教えてもらったドナー候補の方は。。26歳、女性らしい。
嬉しい話ではないっすか。
「その人には拝み倒してでも最終同意まで漕ぎ着けたい。」
と部長も少し興奮。


「後は、その人が健康診断をパスし、最終同意を得られれば、移植できるねぇ」


僕は足取り軽く病院を後にし、近くの珈琲屋で湧き上がる嬉しさを押えきれず、ニヤニヤして珈琲をすすった。
母親と、彼女と、後は色々。思いついた人に電話した。
視界が開けた様な気がした。
クソ寒い日だったと思うのだが、なんて今日は素晴らしい日で、なんて僕はツイテル男なのだ、と本気で思った。

本気で思った。

《続く》

at 01:26, kentaweller, ずっと前 vol.1

-, -, -

2004年1月15日〜2004年5月5日 一時退院、其の五

くどいようだが、本当に、嬉しかった。

ドナー候補者が決まった事を知らされた時点で、移植予定日が決まっていたようだ。
その日は2004年4月16日。

移植の前に準備が色々あるので1ヶ月前に再入院する。

最初の2週間は僕の内臓等の検査。

後の2週間は前処置に入る。
個室に完全隔離され、色んな事をやる。その話はまたいつか。

知らされたのは2月末。

残された時間は後1ヶ月。一時退院中の僕の生活を取り巻いていたある意味ノーフューチャーな緩ーい空気が吹き飛び、もう何かね、もう勝手に神輿を担がれている様な、うーん、難しいな。骨髄移植と言う想像出来ない行為に向けて後戻りが出来ない状況が急ピッチで作られつつある事に戸惑っていた。

簡単に言うともうビビっていた。
勿論嬉しいんだけど。

取り敢えず実家に帰る。
2週間程滞在。

犬を連れて昔通った小学校、兄ちゃんとクワガタ取りに行った裏山、父親の実家所有のみかん畑…毎日散歩に出掛けた。
当然のことながら当分は帰ってこれない.
目に焼きつけておこうと思った。
もろちん、あ、失礼しました。もちろん敬愛する祖父母達にお別れを告げて、いや、お別れではないけどお別れを告げて。


さあ、これから名古屋で仕度しながらゆっくり過ごそうかねぇ。
と、そのつもりで一時退院中最後の通院をする為に名古屋へ向った。

採血をし、診察も終わり、会計を済ませ、お腹が空いた僕はバイクでの帰り道に川名(壇渓通り)のケンタッキーに寄り、そこでチキンを食べていた。
生温いチキンの小骨をチュッチュしていると、携帯が鳴った。

!!

病院からだ。

部長先生からで、僕が帰ってすぐにバンクから連絡が入り、殆ど決まりかけていたドナー候補さんが突然キャンセルを申し出てきた、との事を伝えられる。

決まってから頭の隅っこでずっと恐れていた事が現実になった。

「はぁ」、「はぁ」、「はぁ」「。。」
言われる事に対し、空っぽの相槌を打っていた。

「大丈夫?」と部長先生が聞いてきた。
話の内容は分かっているが、解っていない、というか。。

電話を切る頃には大分正気に戻った。
「まぁ。。しょうがないよ、ねぇ…」
取り敢えず、仕事が終わってるであろう母親にtel。

10分位話し、もうそれ以上事情を説明したくなかったので店内に戻り、冷たくなったチキンと薄まったコーラを飲んだ。

それから。。友人宅に行って現実逃避した。正々堂々と。

ゲームを黙ってずっとやっていた。
あ”ー、ずっとこのままだったら良いのに。。とか、その日だけは本気で思った。

夜になって、自宅に帰り、酒を飲み始める。

ドナーが決まった事を報告した人にはその事も伝えねば。
あー億劫よね。
でも皆驚きながらもそんなネガな話をちゃんと聞いてくれた。ありがとう。

で、数日後には吹っ切れた。
あちらにはあちらの事情があるに違いない。
身内の反対とか、何らかのアクシデントとか、信仰上のアレとか。

よく言われるような、後遺症、見たいな事は今では殆ど起こっていない。
でも、その「もしかしたら」に恐怖を感じてしまうのはしょうがない。
骨髄提供という行為は善意のボランティアでしか無いのだ。

報酬を払う、と言う行為になってしまえば、また別の、深刻な問題が出てきてしまう。

だから、しょうがない。
これしか言えないのだ。

じっと待つ。
そしてもう4月になった。


《続》

at 02:00, kentaweller, ずっと前 vol.1

-, trackbacks(0), -

2004年1月15日〜2004年5月5日 一時退院、其の六

4月。

僕の主治医であるI野先生はは2年間の名古屋での単身赴任を終え、本来の勤務先である甲府の病院へ戻る事になった。

僕にとってあまり縁起が良くない(と思えた)事が続く。
徐々に悪化していく血液。
決定直前でのドナー候補さんのキャンセル。
慣れ親しんで来た主治医の交代。

検査が終わった僕は転勤直前の先生を訪ね、色々話をした。
担当している患者を残して戻らなければならない状況を酷く残念がる。
曰く、何とか移植まで立ち会えると良かった、もし4月16日で決まっていたら立ち会えた、とか。
向うで待っている家族の事とか。
自分の研究している血液の凝固について、とか。

色々話した。

色々話してると何だか、僕もどこか一人ぼっちになってしまう気がして(当たり前のことなのだが)、泣きそうになった。
いや、別に泣ける話なんてしていないのだが、自分のこれから辿っていく道が再びぼやけて来た様な気がして、不安で、どうしようもなかった。

でも、やっぱり、先生と話していると、何だか安心して、そんな気持ちが薄らいでいくのだ。
やっぱり、人間は「初めての人」に弱いのかもしれない。
最後に、握手してさよならした。

「上手く行く事を甲府から祈ってます」

先生は外来を受け持っていない分、入院患者の担当が多かった。
患者さんが危篤になると夜中でも呼び出される。
そんな事も多々あったようだ。
フラフラして白目が真っ赤で診察に来た時は笑った。事もある。
そんなイーノは入院患者、看護師さん達にとっても良い先生だったと思う。
どうもありがとうございます。
お仕事頑張ってください。
僕はまぁ、いい感じに頑張ります。

僕はその帰り道、昭和区の八事から東区白壁まで歩いて帰った。
ずっと音楽を聴きながら雨降っていたので傘差してトボトボ歩く。
shoeをgazeしていたもの。
自分の置かれた状況に酔いすぎていたのね。



ま、そんな事言っていても、腹は減り、酒は飲む。
あまり良くない事の後には、良い事が待っている。
そんなもんだ。

それから一週間程経ったある日の朝、郵便屋が速達を持ってきた。
郵便受けでなく、直接持ってくるなんて。。何だろ。

病院からだった。
部長先生の一筆書きの様にサラサラサラーーっと書かれた手紙には、
保険でキープしておいた新しいドナー候補さんが最終同意に応じてくれ、その結果、貴方の正式なドナーに決まりました、との事。

不意を襲われ、何のこっちゃ、みたいな感じで読んでいた。
寝起きだった。
時計を見ると午前9時。付けっ放しのテレビから「トクダネ」が垂れ流されていた。

両親とももう勤務中なので、母親が帰っているであろう夕方にtel。
「あぁっ、そう!!良かったねぇ!!」
というセリフをその電話で何回も聞いた。

その手紙には、ドナー決定に伴い、再入院日は2004年5月6日、移植予定日が2004年5月28日と記されている。
実は今度のドナーさんの骨髄は僕とは完全に一致していない。

追記してあったのだが、1座不一致での移植となるが、現在の状態から考えれば乗り越えられる可能性が高い、と書いてあった。
少々拒絶反応は出た方が良い。
医学的にはGVHD反応と言われるのだが、その反応が強く出れば出る程、危険は多い(結構危険なトコロまで体験しましたが、その話はまたいつか)、しかしその分良い面も有り、細胞同士がやりあう事で体内に残っているかもしれない癌細胞もやっつけてしまう事が検証されている。これはGVL反応と言われる。

非血縁者1座不一致での骨髄移植が決まった。
まぁ、5年生きられれば問題ナシだ。

入院が延びて一つだけ良かった事が有った。
友人である山崎の結婚式に出席した事だ。

《続》

at 01:05, kentaweller, ずっと前 vol.1

-, trackbacks(0), -

2004年1月15日〜2004年5月5日 一時退院、其の七

山崎(ヤンマー)とは、学生時代からの友人で、一緒に色んな時間を過ごしてきた間柄だ。

結構インドアな学生時代を共に過ごし、反吐が出るくらい胃に酒を流し込み、下らない事でだらしなく笑い、行き過ぎた悪乗りを繰り返してきた仲である。

彼にまつわる話は山ほど有るが、長くなるのでタイトルだけ。
救急隊員の話
入れんでヤらしての話
大文字焼きの話
尿道ゴミ詰まり事件
思い出すだけで笑ってしまう。
本編に関係ある話が一つあるのでそれはまたいつか。

彼が2004年4月16日(だっけ?)に挙式する事が決まっていて、それを聞いた頃は多分立ち会う事は無理だろう、と思っていた。

しかし入院が延びた為、幸か不幸か、2次会だけど参加出来る事になった。
伏見のハードロックカフェ。

3次会にはJB’Sにて彼と一緒に運営しているロックDJイベント「CATCH THE SUN」が予定されていた。
でも、そっちは、行けない。ってか、行かない。
行きたいが、行かない、それは決めている事。

2次会には古くからの友人が沢山来ていた。
正直、発病してからあんなに人が居る所へは行った事が無かったので、勝手にテンションが上がった。
ビールを無茶苦茶飲んだ。
2次会でも他のメンバーがDJをし、司会を担当した。

同じく学生時代からの友人であるthe ARROWSの坂井竜二が『マドベーゼ / ハナレグミ』を歌った。

色々な人に会った。

卒業と同時に名古屋を離れていった奴、結婚して妊娠中の奴、誰かの元カノ、誰かの元カレ、何だかんだ。

皆僕の病気を知っていて、何だか照れくさかった。

それで帰るのは何処か寂しかったので、3次会の前に2.5次会を企画し、トイレに籠ってしまう位そこでも結構飲んだ。

休憩しながら色んな話をした。
自分の病気の話、学生時代のアホな話、お互いの仕事の話、既婚者は旦那の話。。。当然の事ながら、ある程度生きていれば皆、色々ある訳で、それでも集まった時は楽しい時間を過ごそうとする、そんな時間がとても貴重に思えた。

じゃ、って軽い感じで皆と別れた。
僕はこの世界にまだ居たい。けど、その前にやらないといけない事が待っている。だからその直前にこうして皆と会えたのはとても意味があるのだ。

で、2.5次会も終わって、皆3次会に向う。
中日ビルの裏辺りまで歩いた。

そのまま女子大の「一番星」でラーメンを食べ、更に帰り道のドナリで友人の彼女と2人でワインを一本飲んで帰った。
明らかに飲みすぎた。

学生時代に戻ったかの様なキラキラした夜だった。


実は、トイレを借りにJBの中へ侵入した。

自分との決め事があるので本当にトイレを借りただけで足早に外へ出た。
でも、おしっこしながら爆音で流れる音楽を聴いてて、泣けてきた。

そんな夜も、ある。

《続》

at 02:16, kentaweller, ずっと前 vol.1

-, -, -